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法律学科

「民主司法の救済形式」を求めて
-公正な救済志向の「SDGs 民事訴訟法」の探求

教授 川嶋 四郎

専門分野 民事訴訟法
研究室 光塩館501
  業績リスト
教授 川嶋 四郎

私の研究:学生の皆さんへ

私は、これまで民事訴訟法を中心として、民事執行・保全法、倒産法、ADR(裁判外紛争解決手続)、裁判所法等をも包含する「民事救済法」という法領域を構想しつつ研究し、その成果をもとに教育に携わってきました。それは、「インクルーシブな民事訴訟法学」を創造するささやかな試みです。インクルーシブとは、「誰一人取り残さない」包摂的で温かな指針を意味しています。国連において全会一致で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)の基礎にある考え方です。私の専門領域では、「正義の声」を挙げ法的な救済を求めて紛争解決過程を利用する人々や企業、団体等が、誰一人取り残されることなく、手続過程における十分な対論を通じて、どのように「公正な法的救済」を得ることができるかを探求することなのです。「民主司法の救済形式」の探求と呼ぶこともできると思います。

昨年度の「Network 法学部」執筆後、この1年は私にとって大変な年でした。公正な手続や民事司法のあり方を深く考えさせる衝撃の歳月と言ってもいいかと思います。SDGsが採択されるよりはるか前から市民の視点に立ち法学の領域でそのような価値の実現を探求してきた私は、個人の尊厳や手続の公正が様々な形で蹂躙される事態を知り経験したのです。それはウクライナの話でもあり、日本学術会議会員任命拒否問題でもあり、またより身近な問題でもあります。世界の歴史を紐解けば、権力者は、常に権力を濫用しがちであり、そのためにあらゆる技術(法や手続等)を駆使して人々を欺こうとするのです(杉原泰雄『憲法の「現在」』参照)。ヴァルレは、「人間は本来的に傲慢に創られており、高位に就くと必然的に専制に向かう」と指摘し、ジェファーソンは、「信頼は専制の親」と警戒したのです(信頼の裏切りは人間社会につきものなのです)。現在でも反復的に顕在化するこのような事象を、私たちは忘れることができません。「忘却」と闘いつつより良き未来を志向することこそが、歴史に生きて来た無数の人々への責任であり、未来の人々へのささやかな貢献であると考えられるからです。

私が民事訴訟法学を研究対象に選んだのは、それが政治や権力といったある種不合理なものから一番遠くしかも最も理性と公正が希求されそして人々が救われる美しい手続システムであると考えたからです。昨年も書きまた近著『日本史のなかの裁判』(法律文化社)でも触れましたが、日本学術会議会員任命拒否問題は、その後、政府が自己の行為の正当化を目論むが如く、その組織改革の問題にメスを入れることになりました(事後的な辻褄合わせは、森友問題などにも見られます)。それはあたかも自治を謳歌していた平穏な村が突如理不尽に襲撃を受けたようなものです。ウクライナにも学術会議にも誠実に使命を遂行する人にも、多様な権力者の悪意・害意は及んでいるのです。たとえば、信頼と対話を基調とする学術会議は、これまで真摯な対応をしてきましたが、そのようにすればするほど任命拒否問題が背景に退き、それゆえ改革が必要だったのだとか、任命拒否は素晴らしいカンフル注射となったのだなどと言われかねず、問題の転嫁やすり替えは深まるばかりです。

すでに30年以上前に、「学問・教育が政治からの独立性を保障されない場合には、それらは、政治を科学的・合理的に批判・監視・助言し、そのような観点から政治をみることができる将来の主権者を育成することができなくなるだけではなく、容易に政治の侍女として、国民に非科学的・非合理的なイデオロギーを注入する支配のための手段に堕落する。政治の側は、学問・教育の発展を阻止するだけではなく、容易にそれらの濫用に走る」こと(杉原泰雄『民衆国家の構想』)が指摘されていたのです。頂門の一針です。さらに驚くべきことに、旧統一協会問題は、顕在化の時期は前後しますが、任命拒否事件にも関係していたようなのです(2022年12月8日総会議事録参照)。日本学術会議会員任命行為が、任命権者の裁量に左右されることは許されません。任命拒否といった違法行為は終わっておらず、欠員の継続といった違法状態は解消されてもいません。歴史的な事実は消せないものの、そのうち任期満了を迎えかねません(これに対する救済措置としては、川嶋『民事訴訟法』250頁参照)。「任命手続は終わった」などいう言辞は、民訴学者からすると口実に過ぎず、手続的にはいかようにも対応可能なのです(行政行為でも同様です)。口頭弁論など終結しても再開できるのであり、判決でさえ確定しても再審によって取り消すことができるのです。民事訴訟法の基礎には、公正確保に向けた飽くなき法的救済志向の実現への思索があります。あの悪名高き豊田商事事件で、当時の国税当局が知恵を絞り被害者救済のために法解釈を駆使して税金還付の方法を創案してくれた時代があったことは、もっと評価されてもよいと思います。未来を考え他者を思う心さえあれば、正義・公正は実現可能なのです(SDGs.16参照。そこでのJusticeは「公正」と訳されています)。「パリは燃えているか」との問いとその答えを、現在の私たちは知っているのです。陰湿かつ恐怖の時代でも、同志社建学の精神として「自由」の価値を再び想起すべきでしょう(同志社大学良心学研究センター編『同志社精神を考えるために』参照)。「本来リベラリズムは、人間が人間らしく生き、魂の自立を守り、市民的な権利を十分に享受できるような世界をもとめて学問的営為なり、社会的、政治的な運動に携わる」ことを意味します。そのとき一番大切なのが人間の心なのです(宇沢弘文『人間と経済』)。

限りある人生を生きる私たちは、他者配慮を強制できないとしても、少なくとも他者に不快感や不利益を与えない生き方を、人生の一駒一コマで選びたいものです。それでも、この世の中にはまともな感性では考えられない陥穽が存在します。日本司法の父・江藤新平は、世話した書生によって梟首(さらし首)の判決を言い渡されたのです(その書生、河野敏鎌は、後に司法大臣・内務大臣・農商務大臣・文部大臣を歴任しています)。現代では、自分のことを棚に上げ、人のせいにする輩さえ存在します。それでも、日々の暮らしを真摯に生きる人々(ホイジンガ『中世の秋』参照)のために、今後とも公正な司法的救済システムの構築に邁進しなければなりません。それが、尊厳を享受すべき人間の歴史だと考えます。『太平記』が記すように、「謙に居して仁恩を施して己を小めて礼儀をただしふし」なければならないのであり、「徳欠くる則は、位有りといへども持たず」とは至言です。「自由」に学ぶことができる同志社大学で、人類の歴史における英知の結晶である「民事裁判」を、より市民的なものにそしてより公正なものにするために、皆さんと共に学ぶことができればと願います。

なお、私の「救済法」や「民事訴訟法」の研究については、『民事訴訟過程の創造的展開』、『民事救済過程の展望的指針』、『民事訴訟の簡易救済法理』、『民事訴訟法概説〔第3 版〕』(以上、弘文堂)、『差止救済の近未来展望』、『民事訴訟法』(以上、日本評論社)、『公共訴訟の救済法理』(有斐閣)等を、また、法律実務家の養成に関しては、『アメリカ・ロースクール教育論考』(弘文堂)を、さらに、日本の歴史の中での裁判のありようについては、『日本史のなかの裁判』(法律文化社)等を、図書館で手に取ってみてください。近時の民事裁判ICT化を先取りした論考や実証実験を収めた『民事裁判ICT化の歴史的展開』(共著。日本評論社)も是非参照してください。

講義・演習・小クラス

2023年度は、学部では、「民事手続法概論」、「ADR仲裁法」、「担保権実行法」、「民事訴訟法演習(2,3,4年)」、「特殊講義(アメリカ司法制度Ⅰ・Ⅱ)」、「特殊講義(法と文学Ⅰ・Ⅱ)」、「特殊講義(国際商事仲裁Ⅰ・Ⅱ)」、「特殊講義(民事訴訟法の論点Ⅰ・Ⅱ)」を、大学院では、「民事訴訟法演習」、「担保権実行法」、「英文文献研究」、法科大学院では、「民事訴訟法基礎演習」、「民事訴訟法演習」や「ADR 法」の授業等を担当します。学生の皆さんには、今後も、緊張感をもち、一期一会的な語らいの中で民事救済手続過程と向き合い、公正なプロセスのあり方を自律的に探究してもらいたいと願います。特にゼミでは、自由な雰囲気のもと、友人や家族を大切にできる多様な人材が集まることで、心豊かで刺激的な学びの場ができることを期待しています。

プロフィール

滋賀県生まれ。膳所高校、早稲田大学、一橋大学大学院で学び、九州大学大学院教授等を経て、現職。日本学術会議会員。これまで、市民の視点から、「人に対する温かい眼差しをもち社会正義を実現できる法律実務家や良き市民」等の育成に努めてきました。困難な時代だからこそ、学生・院生の皆さんとともに、政治やイデオロギーを超え、「自由で公正なプロセス」を探求し、「人を大切にする制度」のあり方を共に考えていきたいと思います。