以下、本文になります
法律学科
温かい民事訴訟法学を目指して
-校祖・新島襄の愛犬「弁慶」に「倜儻不羈」を想う「民主司法の救済形式」を求めて
教授 川嶋 四郎 KAWASHIMA Shiro, Professor
専門分野 | 民事訴訟法
Civil Procedure, Evidence, Law of Remedies, Bankruptcy, Judicial System |
---|---|
研究室 | 光塩館501 |
業績リスト
List of Research Achievements |
私の研究:学生の皆さんへ
私は、これまで民事訴訟法を中心として、民事執行・保全法、倒産法、ADR(裁判外紛争解決手続)、裁判所法等をも包含する「民事救済法」という法領域を構想しつつ研究し、その成果をもとに教育に携わってきました。それは、「インクルーシブな民事訴訟法学」を創造するささやかな試みです。インクルーシブとは、「誰一人取り残さない」包摂的で温かな指針を意味しています。国連において全会一致で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)の基礎にある考え方です。私の専門領域では、「正義の声」をあげ法的な救済を求めて紛争解決過程を利用する人々や企業、団体等が、誰一人取り残されることなく、手続過程における十分な主体的対論を通じて、どのように「公正な法的救済」を得ることができるかを探求する果てしなき営みなのです。「民主司法の救済形式」の探求と呼ぶこともできると思います。ここ数年、「法の世」という恐ろしい言葉を忘れることができません。忘れられた思想家と呼ばれた安藤昌益(1703-62年)の造語です。その意は、権力者が自分の都合良く作った制度や法律によって支配する世の中のことを言うようです。しかも、昌益は、そのようなご都合主義の法律を「私法」と呼び、「直耕」など行わない武士が支配する社会は「法の世」になると言うのです。その反対に、自然の摂理に従って人々が働く平等な社会が「自然の世」です。近現代の国家における「人の支配」から「法の支配」への遷移は、法に仮託して人の支配を隠蔽する危険性も有しています。行政法では、裁量権の濫用が覆い隠されることを、ある天体が他の天体の影に隠れてしまう状態になぞらえて「掩蔽」と表現するようです。今では忘れ去られつつある日本学術会議任命拒否事件等は、その典型例です。「法」というものを広く捉えれば、今の時代は、昌益が指摘する悪しき「法の世」であり、法さえも「私法」と化しているのです。もちろん、権力者によって私された法と、民の法である民法等の私法とは全く異なります。しかし、市民法である現代の私法でさえ、時に昌益の言う悪しき「私法」化しかねないことには注意すべきでしょう。先の敗戦や原爆投下さえ忘れられつつある現在、少し古いのですが、竹西寛子の『五十鈴川の鴨』は、是非読んでもらいたいと思います。最近のものでは、津村記久子の『水車小屋のネネ』等も。
さて、昌益が生きた江戸時代には、身分を問うことなく学ぶ機会が開かれていました。書物も急速に普及しました。開国後に日本にやってきた外国人は、日本の辺鄙な村にさえ多くの書物を持った家々が存在したことに驚いたようです。その江戸期の通俗教養書の中に、木下公定編『桑華蒙求』(1711-16年?)もあったようで、唐の『蒙求』、日本の『本朝蒙求』にならったものとのことです(以下、同志社女子大学の本間洋一先生の『桑華蒙求の基礎的研究』を参照)。その中巻、第201 話「弁慶乞刀」の中に、弁慶・・・「及長俶儻不羈」(俶=倜)の表現を見つけました。弁慶が千本の刀を得ようとし、立派な刀を持った者に強要した話です。同書397頁には、この逸話の要旨として、「後に君臣となり、彼は牛若に忠節を尽くして側を離れず、衣川の合戦で死んだ。ああ暴悪の人も立派な人となるという点で、あの晋の周処と同じであろうか。」と記載されていました。ここでは、「俶儻不羈」が、良い意味で使われてはいないようですが、「君」次第では、将来「立派な人」になる可能性をもっていたことを示しているのです。
教育理念の1つとして「自由主義」を掲げる同志社は、そのHPでの解説の中で、「倜儻不羈」を挙げ、「才気がすぐれ、独立心が旺盛で、常軌では律しがたいこと」の意と説明しています。校祖・新島襄は、そのような将来性のある人を「倜儻不羈」の人と考え、教育の可能性を展望したと思われます。弁慶はその典型であり、倜儻不羈と評された日本史上のその人の名を愛犬(ビーグル犬)に付けたことにも、新島が、いかに「倜儻不羈」な学生を求めていたかが窺われます。私のゼミでも、そのような学生を歓迎します。ちなみに、次の第202話「管仲射鈎」は、「斉襄公無道」で始まりますが、智徳並行を唱えた新島が無道なわけはありません。Joseph Neesima の名に、その音から、譲(ゆずる)ではなく襄(のぼる)の漢字が選択されただけです。
愛犬と言えば、この秋、亡き愛犬の娘が、8年間の盲導犬生活を終えてわが家に戻ってきました。ベトナムの首都に似た名前を持つその子はすでに10歳。人間に引き直せば、70歳のお婆ちゃんですが、大きな仕事を無事終えて、まるで娘の時代に戻ったかのようによく遊び、そしてよく眠っています。私にとっては、S&G(Simon & Garfunkel) の“Homeward Bound”(早く家に帰りたい)のような毎日です。その娘の澄んだ瞳を見ていると、いつかどこかで誰かの役に立つ仕事をすることの意義を思い知らされます。素晴らしいのは、日々の営みが誰かを助けていたことであり、しかも、そのことさえ本人が自覚していなかったことです。中島敦の『名人伝』を想起します。達人(達犬?)とは、彼女のような存在を言うのかも知れません。澆季混濁に近い現代社会で、無理は承知ですが、そのような「自然で温かい救済の民事訴訟法体系」を構築することができればと心に期しています。
なお、多少とも私の「救済法」や「民事訴訟法」の研究に関心をもつ人は、『民事訴訟過程の創造的展開』、『民事救済過程の展望的指針』、『民事訴訟の簡易救済法理』、『民事訴訟法概説〔第3版〕』、『民主司法の救済形式』(以上、弘文堂)、『差止救済過程の近未来展望』、『民事訴訟法』(以上、日本評論社)、『公共訴訟の救済法理』(有斐閣)等を、また、法律実務家の養成に関しては、『アメリカ・ロースクール教育論考』(弘文堂)を、さらに、日本史と裁判については、『日本史のなかの裁判』(法律文化社)等を、図書館で手に取ってみてください。